瑠璃の石 〜プロローグ 印刷屋の告白〜

プロローグ 印刷屋の告白

2002年10月、東京・神田

三浦印刷の二階、蛍光灯の下で三浦誠司は新聞を握りしめていた。一面に踊る大きな見出し。

「衆議院議員・石井紘基氏、刺殺される」

印刷機のインクの匂いが漂う事務所で、誠司は震える手で新聞をめくる。数日前まで、あの議員から預かっていた資料のことが頭から離れない。特別会計に関する膨大な書類。その中に潜む、ある異常な数字の並び。

「やはり、これが原因なのか……」

誠司は立ち上がり、キャビネットから分厚いファイルを取り出した。石井議員から預かった資料のコピー。表向きは普通の会計報告書に見える書類だが、その奥に隠された真実が、今、重たい影となって彼の肩にのしかかっている。

二十年以上、官公庁の印刷物を手がけてきた誠司には分かった。この数字の並びが示す異常さを。特別会計という制度の中に潜む、巨大な闇の存在を。

「社長、次の仕事の原稿が来ましたよ」

一階から若い社員の声が響く。誠司は慌ててファイルを隠した。彼は窓の外を見やった。秋の雨が静かに降り続いている。霞が関のビル群が、雨に煙って見えた。

「こんなものを、見てはいけなかったのかもしれない」

誠司は深いため息をつきながら、自分の机の引き出しを開けた。そこには、特別会計の闇を示す証拠が眠っていた。石井議員が命を懸けて追い求めていた真実。そして今、その議員の命が奪われた。

「社長、財務省から電話です」

一階からの声に、誠司は思わず背筋を伸ばした。いつもなら何でもない連絡のはずが、今は違う。石井議員の死後、官庁からの視線が変わったのを感じていた。

「分かった、今出る」

階段を降りながら、誠司は胸の内で葛藤していた。石井議員から預かった資料。そこに記された数字の意味。特別会計という制度の中に隠された、国家の闇。普通の印刷屋の社長が、見てはいけないものを見てしまった。

受話器を取る手が、わずかに震える。

「はい、三浦印刷でございます」

「三浦さん」電話の向こうの声は、いつもの担当官とは違った。「先日お預けした資料の件ですが、全て返却していただきたい」

「資料、ですか?」

「ええ。石井代議士関連のものです」

誠司は一瞬言葉を詰まらせた。コピーを取っていることは誰にも言っていない。しかし、この電話の真意は明らかだった。

「承知いたしました。ただ、既に溶解処理は済ませておりまして」

「そうですか」相手の声に、わずかな緊張が混じる。「念のため確認させていただきたいのですが、コピーなどは?」

「いいえ、そういったものは一切」

電話を切った後、誠司は長い息を吐いた。嘘をつくのは初めてではない。印刷業界で二十年以上、時には官庁の機密資料も扱ってきた。しかし今回は違う。その嘘が、自分の命運を左右するかもしれないことを、直感的に理解していた。

「社長、大丈夫ですか?」

ベテラン社員の田中が、心配そうに声をかけてきた。

「ああ」誠司は平静を装って答えた。「ちょっと、納期の確認でね」

その日の夕方、誠司は早めに社員を帰した。雨の降りしきる中、彼は二階の書斎で一人、資料と向き合っていた。

「これを、どうすべきか……」

石井議員の死は偶然ではない。資料が示す数字の異常さが、それを物語っている。しかし、これを明らかにすることは、自分や家族までも危険に晒すことを意味する。

誠司は机の引き出しから、一枚の写真を取り出した。息子の康平が大学を卒業した時の記念写真だ。今は IT関係の会社に勤め、妻と幼い息子もいる。普通のサラリーマンとして、平凡な幸せを築いている。

「康平、お前には申し訳ない」

誠司は覚悟を決めたように立ち上がり、キャビネットから新しいファイルを取り出した。そこに資料を整理し、細かなメモを書き加えていく。

「瑠璃の石」

誠司は、自分でもその言葉の意味を完全には理解していなかった。石井議員が最後に残した言葉だった。表面は美しく透明でも、内部には複雑な結晶構造を持つ瑠璃のように、特別会計という制度の奥に潜む闇を表現した言葉。

「まるで、暗号のようだ」

誠司はファイルに挟まれた資料を見直した。一般会計から特別会計へ。特別会計から特殊法人へ。そして、その先にある見えない口座へ。資金の流れは複雑に絡み合い、まるで迷宮のように入り組んでいる。

「これを単純な数字の羅列に」

彼は新しいノートを開き、資料の内容を数字の配列に置き換えていった。日付、金額、口座番号。それらを特殊な規則で並び替え、一見しただけでは意味の分からない数列に変換していく。印刷業で培った知識が、ここで役立った。

「これなら、素人には理解できない」

しかし、その分野の専門家が見れば、きっと気づくはずだ。この数字の並びが持つ不自然さに。そして、その奥に隠された真実に。

夜が更けていく。外の雨は止むことなく降り続けていた。誠司は机の上のカレンダーに目をやった。息子の康平の誕生日が近い。今年も家族で食事に行く約束をしていたが、それも今は遠い世界のことのように感じられた。

「社長!」

突然の声に、誠司は反射的に資料を隠した。しかし、それは単なる外の物音だった。緊張で神経が高ぶっているのが分かる。

「これも、残さなければ」

誠司は新しい封筒を取り出した。そこに石井議員との写真を入れ、さらに細かなメモを書き加えた。

『この写真の意味が分かる時が来たら、全てを理解できるはずだ』

彼は再び息子の写真を見つめた。康平には普通のサラリーマンとして、平凡な幸せを守ってほしい。しかし、いつか必ず、この真実に向き合う時が来るかもしれない。その時のために、できる限りの準備をしておかなければ。

「デジタル金庫、か」

誠司は、先日購入した金庫の説明書を広げた。普段、デジタル機器は苦手な彼だが、これだけは必要だと感じた。紙の資料は燃やすことができる。しかし、証拠は残しておかなければならない。後世のために。

「暗証番号は、そうだな……」

彼は意味ありげな数字を打ち込んだ。その数字の意味を理解できる者だけが、この金庫を開けることができる。それが、最後の守りになるはずだった。

「社長、まだおられましたか」

今度は確かに、一階から声が聞こえた。夜警の村井だ。

「ああ、もう帰るよ」

誠司は慌てて資料を金庫に収め、鍵を閉めた。デジタル表示が赤く光り、ロックが掛かる音が響く。

「村井さん、ちょっといいかな」

階段を降りながら、誠司は夜警に声をかけた。20年近く務めてくれている信頼できる従業員だ。

「はい、社長」

「もし、私に何かあったら……」誠司は言葉を選びながら続けた。「二階の書斎は、息子の康平が来るまで、誰も入れないようにしてくれないか」

「社長、どうかされましたか?」

「いや、ただの老人の取り越し苦労さ」

誠司は作り笑いを浮かべた。しかし村井の表情は真剣だった。古い付き合いの従業員は、最近の社長の様子の変化を気にしているようだった。

「分かりました。お任せください」

外に出ると、雨は上がっていた。水たまりに映る街灯が、どこか不気味な光を放っている。誠司は自然と霞が関の方向に目を向けた。暗闇の中に、官庁街のシルエットが浮かび上がっている。

「石井さん、あなたは最後まで真実を追い求めた」

ポケットに入った夕刊の切り抜きが、重みを増したように感じる。「刺殺」「金銭トラブル」という見出しが躍る記事。しかし、誠司には分かっていた。これが偽装された事件だということを。

家に帰る途中、誠司は久しぶりに神田の古い居酒屋に立ち寄った。カウンターに座り、燗酒を注文する。

「先生、お久しぶりです」

マスターが覚えていてくれた。かつて、石井議員とよくこの店で飲んだ。議員は熱心に特別会計の問題を語り、誠司はその話に耳を傾けた。あの頃は、まだ単なる他人事のように感じていた。それが今、自分の運命を左右する真実となって突きつけられている。

「ご機嫌いかがですか?」

「ああ、相変わらずだよ」

誠司は微笑んで答えたが、心の中は複雑な思いが渦巻いていた。明日からは、いつもと違う日々が始まる。資料の整理、デジタル化、そして隠蔽工作。全ては息子に真実を伝えるため。しかし、その真実が彼を危険に晒すかもしれないという恐れも、同時に存在していた。

「もう一本、頂けますか」

誠司は二本目の燗酒を求めた。喉を通る温かい酒が、少しだけ緊張を和らげてくれる。

店を出る頃には、再び小雨が降り始めていた。誠司は傘を差しながら、ゆっくりと歩き出した。明日からは、より慎重に行動しなければならない。電話も、来客も、全てが監視の対象となるかもしれない。

「息子よ」

誠司は夜空を見上げた。光の届かない暗闇の中に、無数の雨粒が降り注いでいる。

「いつか、この真実を受け止める時が来たら──」

その言葉は、雨音に消されて闇の中へと溶けていった。

帰宅すると、妻が心配そうに出迎えた。

「お仕事が長引いたの?」

「ああ、ちょっとな」

誠司は靴を脱ぎながら、妻の表情をうかがった。この人には何も話せない。話せば、きっと心配をかけることになる。それに、知らないほうが安全だ。

「康平から電話があったわよ。来週の日曜日、健太くんを連れて来るって」

「そうか」

孫の名前を聞いて、誠司の表情が僅かに和らいだ。三歳の健太は、まだ歩き始めたばかり。その無邪気な笑顔を見るたびに、この国の未来について考えずにはいられない。

「お風呂にしますか?」

「ああ、そうさせてもらおう」

湯船に浸かりながら、誠司は今日一日の出来事を振り返っていた。石井議員の死。財務省からの電話。そして、これから自分がしなければならないこと。

「正しいことをしているのか」

湯気の立ち込める中で、誠司は自問自答を繰り返していた。このまま知らぬ顔をして生きていくことも、できたはずだ。しかし、それは石井議員の死を無駄にすることになる。そして何より、この国の未来を、闇の中に埋もれさせることになる。

風呂から上がると、妻が温かい茶を用意してくれていた。

「最近、元気がないみたいだけど、大丈夫?」

「ああ、年のせいかな」誠司は苦笑した。「仕事も、だんだんきつくなってきてね」

嘘をつくのは辛かった。しかし、これも家族を守るための方便だと、自分に言い聞かせる。

寝室に入る前に、誠司は書斎に立ち寄った。引き出しの中には、まだ整理していない資料が残されている。明日からは、それらを一つ一つ、より安全な形に変換していかなければならない。

机に向かい、誠司は一枚の便箋を取り出した。

『康平へ』

ペンを握る手が、わずかに震える。

『この手紙を読む頃には、私はもういないかもしれない。 しかし、これだけは伝えておきたい。 私が残したものには、この国の重大な秘密が隠されている。 それを明らかにするかどうかは、お前次第だ。 ただ、その選択には大きな責任が伴うことを、忘れないでほしい』

誠司は書きかけの手紙を見つめ、深いため息をついた。息子に託す言葉として、これで十分だろうか。それとも、もっと詳しく書くべきだろうか。

外では、また雨の音が強まっていた。 誠司は窓際に立ち、闇に沈む街を見つめた。 どこかで、真実は必ず明らかになる。 その時、息子が正しい選択をしてくれることを、祈るように。

「おやすみなさい」

妻の声に、誠司は我に返った。手紙は、まだ完成していない。しかし今は、それでいい。まだ時間はある。少しずつ、確実に、真実を伝えるための準備を進めていけばいい。

「ああ、おやすみ」

誠司は書斎の明かりを消した。今夜は、久しぶりにゆっくりと眠れそうな気がした。 全ては、明日からだ。